ウクライナの新聞記事(2001/8/14-15版)(2001/11/8)
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訳:小林増美(ポーランドクラクフ在住)
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ポストゥプ (2001.08.14−15)
ベートーベン魂の賛美
リヴィウ音楽祭「抱擁せよ、百万の...」が終わって
ヤクィム・ホラク
百万人もの人々が喜び勇んで進む、 心の声が聞こえるから。 イヴァン・フランコ
ベートーベンの9つの交響曲を連日演奏するという着想は、リヴィウ市民にとって真新しいことでもなく、すでにリヴィウフィルハーモニーによって実現されている。今回の音楽祭が特別なものとなったのは、計画を実行するにあたって、リヴィウの音楽家達だけでなく、日本やポーランドからの音楽家達もが参加したことによる。音楽祭名を構成する言葉は、特別な政治的意味を含んでいる。ただ、この計画が、天才作曲家の生誕250年にあたる、昨年12月に開催されなかったことは残念である。12月は何も企画、開催されないまま過ぎてしまった。
音楽祭全体の成功の立役者となったのは、2人の日本人指揮者 ― 草川幸雄、山田信芳である。草川は、すでに当市にて、特にチャイコフスキーの交響曲の解釈によって、名声を得ている。彼は、ベートーベンの最も勇ましい交響曲(第5、6、7、9番)を自ら指揮することによ?て、音楽祭で再び、躍動的かつ情緒的な解釈によって、大交響曲の指揮を得意としていることを証明した。山田信芳は、リヴィウは初めてであるにもかかわらず、瞬く間に聴衆を、彼の流儀である率直さ、あふれる生気、造形性、過剰すぎず不自然さのない芸術性でとりこにした。彼の指揮による交響曲第1、2、3、4、8番の演奏では、その彼のスタイルをはっきりと感じとることができた。この2人の日本人指揮者の下で、リヴィウフィルハーモニー管弦楽団の演奏は、高い評価を受けて当然であったであろう、「アキレス腱」という1つの弱点がなかったならば。最初の4つの交響曲と序曲「フィデリオ」で見事に裏切ってくれた ― 「銅製吹奏楽器」奏者達のせいである。交響曲第9番の演奏に関して、管弦楽団は準備万端ではなかったようだ。(連続した公演による疲労のためか、それとも練習不足のためなのであろうか?)
指揮者のほかに、ソリストと合唱団が客演として舞台に立った。ピアニスト淵本裕子の優美で繊細な(おそらくベートーベンの曲を表現するにあたっては過度にでさえある)、均整が取れ技術的に完璧な演奏。しかし彼女の第1ピアノ協奏曲の演奏は、この曲が彼女を感情的に全く揺り動かさない ― 型にはめられた躍動感とでも言おうか、活き活きした感情表現とアクセントを欠いて演奏された ― という印象を与えた。それは、彼女の演奏においてただ1つの、しかし重大な欠点である。ピアニスト浦山純子の弾奏は、特に弱音のグラデーションは非常に美しいが、第5ピアノ協奏曲「皇帝」を演奏するに必要な体力が欠けている。彼女の演奏によるピアノ協奏曲は、支配者である威光に満ちた皇帝・独裁者ではなく、繊細な恋する皇女の音楽的肖像画を描き出したのである。若手ポーランド人ピアニスト、ヤクプ・トホジェフスキによる第2ピアノ協奏曲の演奏は、繊細さの点では彼女達に劣らず、またよりいっそう鮮やかであった。彼の第2ピアノ協奏曲は大変良い印象を与えた。
最も評価をするのが難しいのは日本からの合唱団「シューベルト200」であり、リヴィウの聴衆はその合唱団の本来の歌唱力を充分に聴き取ることができなかった。合唱団は、ベートーベンフェスティバル演奏曲のほかに、独自のプログラムを発表したのだが。ベートーベン交響曲第9番 ― 声楽部にとって極めて難度の高い作品 ― の合唱では、合唱団とソリスト達は快い印象を与えてくれた。残念なことに、合唱はオーケストラとの練習不足をかなり感じさせた:合唱団とオーケストラの一団としてのまとまりはより良くなることができたはずである。ただ、理解しなければいけないのは、このような詰まった日程での音楽祭は、プロの音楽家でさえ心理的に疲れさせることもありうるということ、この壮大な作品の演奏のためには、今回実際に行われたのよりも、相当の時間をかけた準備を必要とするということである。音楽祭自体、なかでも、交響曲第9番の演奏がリヴィウの音楽史上偉大な非日常的な出来事となったという事実に関しては、議論の余地、疑いの余地はない。日本からの客人達は絶大なる賞賛と心からの感謝に値するのである。
音楽祭全日程を通して、驚くほど聴衆の関心が高いということがわかった。リヴィウの不順な天候、夏季休暇期の真只中であること、フィルハーモニーホール内の絶えがたい熱気にもかかわらず、本当に「数百万もの」聴衆が演奏会に出向き、心から歓迎し、音楽家達の高水準の演奏に酔った。この心からの歓待のなかに心動かされる瞬間があった。聴衆の中から子供が、舞台に上がり自分で作ったおりがみの鳩を指揮者達に贈ったのである ― 音楽祭期間中に過ぎた原爆記念日、広島と長崎の悲劇の追悼のために。したがって、音楽祭の名は政治的な意味合いだけでなく、思想的・哲学的意味を、また完全な人類愛的シンボルを持っているのである。そこに存在するのは、ベートーベンの不滅の作品が有する精神なのである。
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※ 音楽祭名「抱擁せよ、百万の...」に関しては確認しておらず、“思想的・哲学的
意味を、完全な人類愛的シンボルを...”という部分も直訳しただけで、真意を解っ
ていません。
※ “おりがみの鳩” ― 折り鶴のことでしょうが、オリジナルで“鳩”と書かれています。
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田坂 tasaka-u1@na.commufa.jp
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